洞源院について
震災時のこと
~曹洞宗「禅の友」平成24年2月号より~
平成23年3月11日午後2時46分、突然、大きな揺れに見舞われた。そのとき、宮城県石巻市渡波(わたのは)の高台にある洞源院住職の小野﨑秀通さんは、「大勢の人が避難してくる」と直感した。
そしてすぐに、ラジオ用乾電池の予備がないことに気がついた。そこで、近くにいた長女の真弓さんに、「コンビニで乾電池を買ってきて!」と叫んだ。
その日、近くの老人福祉施設に勤めている真弓さんは夜勤明けで、昼過ぎまで眠っていて、起きたばかりであった。災害の時のラジオの重要さは、住職からよく聞かされていた。そして、真弓さんは車で出かけた。
一方、地震発生の10分後には、境内に人が駆け込んできた。地震とともに車で逃げてきたという。さらに夕方になると、波をかぶり、全身ずぶ濡れになりながら逃げてきた人も増え、200人ほどになった。逃げてきたのは檀家の人ばかりではない。この高台の安全さを知っている人はだれ構わずやってきた。
あっという間に会館や本堂は人で溢れかえった。そして、2日目には300人に膨れ上がっていた。 しかし、そこに乾電池を買いに出かけた真弓さんの姿はなかった。
自分の言ったひと言が、娘を死に追いやってしまった、と小野﨑住職は後悔しながら、避難してきた人の世話に明け暮れていた。否、姿の見えない娘さんとは向き合うまい、と現実から目を背けていたのかも知れない。だるまストーブの準備、米の確保、仮設トイレや水の手配などなすべきことは次から次へとあった。それでも、やはり気になった。時間が空いたときには麓まで下りて、泣きながら真弓さんの車を探した。四重五重に折り重なっている車の山はあったが、そのなかに真弓さんの車はなかった。娘さんの死を覚悟した。
3日目の朝、胸までずぶ濡れになって真弓さんが帰ってきた。
真弓さんは、近くのコンビニには乾電池がなかったので、橋を越えて駅のほうまで行った。乾電池を買い求めたときには、津波が押し寄せてくる直前だった。車を運転していて、後ろから黒い波の壁が襲ってくるのを見た。「もうダメだ!」と思いながらも、無我夢中で逃げた。どこをどう逃げたのかも覚えていない。気がついたら、陸橋の上に止まっていた。周りは冠水していて車の外に出ることもできない。2日間車のなかで過ごし、3日目になっても水が引かないので、瓦礫を乗り越え、水の中を歩いて戻ってきたのだという。
まさに、父娘が死と向き合った数日間であった。ラジオでは、石巻市の死者行方不明者、約5000人と報道していた。